2007.05.31(Thu) 【雑記】
包丁社会
閑話休題。
最近仕事が空いている状態なのでぽとぽと色々なサイトを回る機会が増えた。
とはいってもやはり仕事場なのでオタクなサイトは回れない。
何を見てるのかと言えば、書評や論評である。
それはもう本一冊分にはなろうかという量を一気に読む。
元々私は読むスピードが人に比べて早いらしいので
(一説によると脳内で声に変換し音読しないことが速読のコツだということらしいが言われてみると確かに集中しているときにはただ文字を追い理解、想像するというだけで音は入ってきていないように思う)
一時間程の待ち時間でも実に様々な情報を得ることになるわけだ。
何故にそんな真面目な文章を読むのかというと、それは面白いからに他ならない。
しかし何故面白いと感じるのかをはたと考えてみると多少言葉に窮す。
あれこれ考えてようやく
それが本能的な感情を理性的に表しているからなのかもしれない。と思い至った。
本能的な感情とは、言ってみれば嫌悪感や高揚感みたいなもので
例えば何かの本を読んで「この本、あまり好きじゃないわ」とか「この事件ってなんか異常だよな」とか「なんかこの言葉、すてき!」みたいな情動である。
皆そういうことは日々感じて生きているはずだし、私もそれを毎日何十回と経験している。
しかしその情動をそのまま表現した言葉はあまりにも利己的である。
つまり日記やら掲示板やらに言葉として変換した瞬間に誰かに伝わる伝達物となるわけだが、
その伝達物として情動そのままの「言葉」は、機能が機能的に働かないということだ。
(もちろん例外もある。本能的である文章なだけにそれは同じ思いを抱いてる人にとって良い高揚材ともなるわけだ。感覚共有を起こしやすいという点では、情動、本能的な言葉ほど強いものはないだろう)
くだけて言ってしまえば他人にその感動なり怒りを伝えようとするならば、もう少し何かどうしてそうだとか説明してくれないとこっちだって理解してやろうとは思わないんだよ、このひとりよがりのばかやろーってところだろう。(ちなみにこのばかやろーという言葉も情動的であり、全く伝えるための素材として文脈が不足している)
そのために他人に伝わる言葉として通さなければならないフィルターが「理性」なのだ。
理性とは本能を抑制する機能のようなものであるが、言葉にするにしてもこの理性は重要な役割を果たしている、特に書評論評を述べるときなどはなおのこと、だろう。
簡単に言えば理性の完璧に働いた文章は冷たいのだ。
冷静であり、冷淡であり、冷酷である。
だから感覚や感動、情動の共有はできない。あくまでも読む側は説得される側になるわけである(説得されるかされないかは別として)。
書評論評の面白いところはその二つが巧い具合に噛み合っているところだろう。
つまり書いた人本人はその事柄について明らかに何らかの情動を感じているのに
その情動を理性的に述べている。
その辺のことが巧いな、と思うサイトを右のリンクに追加したので、ちょっと興味の湧いた方は覗いてみるといいかもしれない。「マンガ夜話」と「藤原新也」さんの日記の記事が、かなり手近で良い例だろう。
そういえば最近
情動=言葉
となって蔓延しているのがこのネットの世界なのかなとも思う。
つまり共感しやすいが暴力的で全く理性的とは言いがたい言葉たちのことだ。
誰かが何かのほんの間違い発言をすると一気に不特定多数の人間が言葉による攻撃をする。
それは間違い発言をした本人に責務があるとも言えるが、その相手に攻撃を(たとえ表面上で理屈たらしくそれを非難していたとしてもだ)している人だって問題だ。まあ、えらく一側面的な見方だが一部のそういった言葉が大多数行き交う場所でそのような攻撃が日々繰り返されているのだから正論ではないにしろ間違いでもないだろう。
何度も繰り返すが本来言葉とは「伝えるため」にあるのであり、「情動」をぶつける道具として使うにはえらい危険物である。
例えて言えば包丁は便利だけど台所以外で使う人はあんまりいない。その台所にあたるのが自分の心の内の情動だと思っていただきたい。言葉は包丁、台所は心の内なのだ。そしてその包丁を外で持ち歩いても危険がないように納める鞘が、理性なのだ。
ネットの中には鞘に納めなくてもいいよ的な場所がいくらかあり、そのことによって心を吐露して楽になれる人ももちろんいるだろう。それはとてもネットの良いところだと言える。
しかしそれは自分の届く範囲内でしかやはりやってはいけないことのように思うのだ。
私は近頃ほとほと言葉の扱いに窮している。
HPは自分の範囲内であるが、他人の見る領域でもあるわけで
そしてその他人の中にはそれを自分の領域と勘違いしている人も多いだろうと感じたからだ(実際に被害にあったわけでは全くないのだが他の場所にいくとそう思うことがある)。
全く言葉とは面倒くさい。
でもだからこそ伝えるために洗練された形の鞘は刃が見えなくても美しく感じるものなのだろう。
最近仕事が空いている状態なのでぽとぽと色々なサイトを回る機会が増えた。
とはいってもやはり仕事場なのでオタクなサイトは回れない。
何を見てるのかと言えば、書評や論評である。
それはもう本一冊分にはなろうかという量を一気に読む。
元々私は読むスピードが人に比べて早いらしいので
(一説によると脳内で声に変換し音読しないことが速読のコツだということらしいが言われてみると確かに集中しているときにはただ文字を追い理解、想像するというだけで音は入ってきていないように思う)
一時間程の待ち時間でも実に様々な情報を得ることになるわけだ。
何故にそんな真面目な文章を読むのかというと、それは面白いからに他ならない。
しかし何故面白いと感じるのかをはたと考えてみると多少言葉に窮す。
あれこれ考えてようやく
それが本能的な感情を理性的に表しているからなのかもしれない。と思い至った。
本能的な感情とは、言ってみれば嫌悪感や高揚感みたいなもので
例えば何かの本を読んで「この本、あまり好きじゃないわ」とか「この事件ってなんか異常だよな」とか「なんかこの言葉、すてき!」みたいな情動である。
皆そういうことは日々感じて生きているはずだし、私もそれを毎日何十回と経験している。
しかしその情動をそのまま表現した言葉はあまりにも利己的である。
つまり日記やら掲示板やらに言葉として変換した瞬間に誰かに伝わる伝達物となるわけだが、
その伝達物として情動そのままの「言葉」は、機能が機能的に働かないということだ。
(もちろん例外もある。本能的である文章なだけにそれは同じ思いを抱いてる人にとって良い高揚材ともなるわけだ。感覚共有を起こしやすいという点では、情動、本能的な言葉ほど強いものはないだろう)
くだけて言ってしまえば他人にその感動なり怒りを伝えようとするならば、もう少し何かどうしてそうだとか説明してくれないとこっちだって理解してやろうとは思わないんだよ、このひとりよがりのばかやろーってところだろう。(ちなみにこのばかやろーという言葉も情動的であり、全く伝えるための素材として文脈が不足している)
そのために他人に伝わる言葉として通さなければならないフィルターが「理性」なのだ。
理性とは本能を抑制する機能のようなものであるが、言葉にするにしてもこの理性は重要な役割を果たしている、特に書評論評を述べるときなどはなおのこと、だろう。
簡単に言えば理性の完璧に働いた文章は冷たいのだ。
冷静であり、冷淡であり、冷酷である。
だから感覚や感動、情動の共有はできない。あくまでも読む側は説得される側になるわけである(説得されるかされないかは別として)。
書評論評の面白いところはその二つが巧い具合に噛み合っているところだろう。
つまり書いた人本人はその事柄について明らかに何らかの情動を感じているのに
その情動を理性的に述べている。
その辺のことが巧いな、と思うサイトを右のリンクに追加したので、ちょっと興味の湧いた方は覗いてみるといいかもしれない。「マンガ夜話」と「藤原新也」さんの日記の記事が、かなり手近で良い例だろう。
そういえば最近
情動=言葉
となって蔓延しているのがこのネットの世界なのかなとも思う。
つまり共感しやすいが暴力的で全く理性的とは言いがたい言葉たちのことだ。
誰かが何かのほんの間違い発言をすると一気に不特定多数の人間が言葉による攻撃をする。
それは間違い発言をした本人に責務があるとも言えるが、その相手に攻撃を(たとえ表面上で理屈たらしくそれを非難していたとしてもだ)している人だって問題だ。まあ、えらく一側面的な見方だが一部のそういった言葉が大多数行き交う場所でそのような攻撃が日々繰り返されているのだから正論ではないにしろ間違いでもないだろう。
何度も繰り返すが本来言葉とは「伝えるため」にあるのであり、「情動」をぶつける道具として使うにはえらい危険物である。
例えて言えば包丁は便利だけど台所以外で使う人はあんまりいない。その台所にあたるのが自分の心の内の情動だと思っていただきたい。言葉は包丁、台所は心の内なのだ。そしてその包丁を外で持ち歩いても危険がないように納める鞘が、理性なのだ。
ネットの中には鞘に納めなくてもいいよ的な場所がいくらかあり、そのことによって心を吐露して楽になれる人ももちろんいるだろう。それはとてもネットの良いところだと言える。
しかしそれは自分の届く範囲内でしかやはりやってはいけないことのように思うのだ。
私は近頃ほとほと言葉の扱いに窮している。
HPは自分の範囲内であるが、他人の見る領域でもあるわけで
そしてその他人の中にはそれを自分の領域と勘違いしている人も多いだろうと感じたからだ(実際に被害にあったわけでは全くないのだが他の場所にいくとそう思うことがある)。
全く言葉とは面倒くさい。
でもだからこそ伝えるために洗練された形の鞘は刃が見えなくても美しく感じるものなのだろう。
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