2007.02.19(Mon) 【読んだ漫画】
岡崎京子について
さて、何かにつけてHPやブログで触れている岡崎京子について今回はちょっとご説明いたします。
岡崎京子は主に80〜90年代の間に活躍し、10年ほど前の交通事故で現在もリハビリ中の漫画家さんです。
近年でも高い評価をされることが多く、2004年には「へルタースケルター」が手塚治虫賞に輝いていたりします。
なにかにつけて私が彼女を尊敬するのは彼女の持つ、徹底した客観性にあるのかな、と思います。
とにかく冷静。渇いた笑いと観察眼と言葉のミックスで出来たような、全く個人の感情に寄らない表現方法がすごく好き。
少女漫画にあるような夢や希望や恋に満ちた世界はそこには全くなく、あるのは現実を淡々と受け止めなければならない(しかしそれを悲観すらしないような諦念に満ちた)日常で、私たちの世界と地続きで繋がるような、現実じみた場所。そこに置かれている状況について淡々と語るようなやりくち。日常のきらきらした偽物っぽい「おしゃれぶってて、きれいぶってて、いいこぶっている」ようなものをはがしたときにいかに私たちが空っぽであるかをおしげもなく突きつけられているような感覚。
それなのに全く動揺の欠片すら見せないようなそぶりで漫画としてシーンを切っていく手法が本当に凄いと思う。慈悲や慈愛のかけらもない。それなのにただ世界は存在して動いている。それだけをただ黙々と見つづけている。
私が一番初めにびりっと電気を感じたのが「リバース・エッジ」の見開きゴマ。
第何話とかの扉の後にいきなり工場の風景が見開きで入ってくる。
え、と呑まれながら次へいくところで入るハルナのモノローグ。
そのよくわからない「間」に私は完璧にやられた。よくわからないがその「間」で色々なものが見えたのだ。台詞も何も入っていないただの工場のその風景だけで、全部言い表されてしまった気がしたのだ。
この漫画と出会ったのは大学の頃だった。そんなに古い話ではない。
でもそのとき初めて私は漫画の持つ表現の広さを思い知らされたようだった。
なんで今までこれが見えなかった?
なんで今までこんなに凄い表現手法に気が付かなかった?
ただ話を動かす為に絵を動かすんじゃない。説明の為に言葉や絵で補っているわけじゃない。
シーンが映画のように切れるからテンポだって動かせる。テンポが動かせれば空気が変わる。
シーン演出ができるのならばそれだけで物語の世界の奥行きが変わる。
言葉が言葉として独立して意味を持つことも、絵だけがそこにあるというだけでも伝わるものは伝わる。あるいはそういう表現が息づかいのようになり生々しささえ与える。
なるほどね。
漫画は娯楽以上に何かを表現することも可能なのか。
例えば映像が娯楽的な番組になるだけでなく、実験的に使うことで(たとえばビルヴィオラのような)人の心理にまで入り込んで突き動かすようなものになることも可能なのと同じように、と。
そうか漫画っていうのはこういうことで楽しむこともできるんだな、と知った大学二年の頃。
私が漫画を描きたいと思ったきっかけはこの瞬間だったんだと思う。
(松本大洋にも多大に影響をうけているが)
誰かの心の奥まで入り込んでそれを揺らして、そういうことができるのならばやってみたいと、興味がわいたのだ。
岡崎京子は主に80〜90年代の間に活躍し、10年ほど前の交通事故で現在もリハビリ中の漫画家さんです。
近年でも高い評価をされることが多く、2004年には「へルタースケルター」が手塚治虫賞に輝いていたりします。
なにかにつけて私が彼女を尊敬するのは彼女の持つ、徹底した客観性にあるのかな、と思います。
とにかく冷静。渇いた笑いと観察眼と言葉のミックスで出来たような、全く個人の感情に寄らない表現方法がすごく好き。
少女漫画にあるような夢や希望や恋に満ちた世界はそこには全くなく、あるのは現実を淡々と受け止めなければならない(しかしそれを悲観すらしないような諦念に満ちた)日常で、私たちの世界と地続きで繋がるような、現実じみた場所。そこに置かれている状況について淡々と語るようなやりくち。日常のきらきらした偽物っぽい「おしゃれぶってて、きれいぶってて、いいこぶっている」ようなものをはがしたときにいかに私たちが空っぽであるかをおしげもなく突きつけられているような感覚。
それなのに全く動揺の欠片すら見せないようなそぶりで漫画としてシーンを切っていく手法が本当に凄いと思う。慈悲や慈愛のかけらもない。それなのにただ世界は存在して動いている。それだけをただ黙々と見つづけている。
私が一番初めにびりっと電気を感じたのが「リバース・エッジ」の見開きゴマ。
第何話とかの扉の後にいきなり工場の風景が見開きで入ってくる。
え、と呑まれながら次へいくところで入るハルナのモノローグ。
そのよくわからない「間」に私は完璧にやられた。よくわからないがその「間」で色々なものが見えたのだ。台詞も何も入っていないただの工場のその風景だけで、全部言い表されてしまった気がしたのだ。
この漫画と出会ったのは大学の頃だった。そんなに古い話ではない。
でもそのとき初めて私は漫画の持つ表現の広さを思い知らされたようだった。
なんで今までこれが見えなかった?
なんで今までこんなに凄い表現手法に気が付かなかった?
ただ話を動かす為に絵を動かすんじゃない。説明の為に言葉や絵で補っているわけじゃない。
シーンが映画のように切れるからテンポだって動かせる。テンポが動かせれば空気が変わる。
シーン演出ができるのならばそれだけで物語の世界の奥行きが変わる。
言葉が言葉として独立して意味を持つことも、絵だけがそこにあるというだけでも伝わるものは伝わる。あるいはそういう表現が息づかいのようになり生々しささえ与える。
なるほどね。
漫画は娯楽以上に何かを表現することも可能なのか。
例えば映像が娯楽的な番組になるだけでなく、実験的に使うことで(たとえばビルヴィオラのような)人の心理にまで入り込んで突き動かすようなものになることも可能なのと同じように、と。
そうか漫画っていうのはこういうことで楽しむこともできるんだな、と知った大学二年の頃。
私が漫画を描きたいと思ったきっかけはこの瞬間だったんだと思う。
(松本大洋にも多大に影響をうけているが)
誰かの心の奥まで入り込んでそれを揺らして、そういうことができるのならばやってみたいと、興味がわいたのだ。
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