2008.05.01(Thu) 【雑記】
そうしきの話
四月の始めに大叔母様が亡くなった。
私の祖父の姉にあたる人で、私もたまに母親と家を訪ねることもあった。
母が真夜中に大騒ぎして電話をかけてきて、仕事で終電もぎりぎりの時間に帰り道を急いでいた私は母の「行きなさい」「行くべき」というような押し付けるような語調に大層イライラさせられた。
元より私は誰かに押し付けられた、義務のような、義理のようなものの理由から行動するのが大嫌いだからだ。私は母のそういったプレッシャーをかけるような、まるで私が行くのを面倒がっているとはなから決めつけたような言いぶりに激怒し、そのまま電話を切ってしまった。
それでも私はそこまで意固地ではないのでちゃんと予定を合わせることにした。
意固地というより母のその態度が気に食わなかったというだけで、大叔母様にご挨拶に行くことを拒む理由等ないわけだし、お世話にもなったしそのへんはちゃんときちんとしたかったのだ。
久々におばさま(祖父の姉の娘にあたる人)に電話をしたら、相変わらずしゃかりきな声で「無理しなくていいのよ、仕事あるでしょう?」と言われた。そう言われると人間心の余裕ができるというもの。「ううん、土曜仕事だからその帰りがけ、八時くらいに行くけど大丈夫ですか?」と聞く。そんなこんなで通夜の前の親族の集まりのようなものにそうしてどうにか顔を出すことができた。
母に言われた通り、私は大叔母様が好きだったというピンクの花を求めて仕事帰りに花屋に寄った。
服装は地味だが私服。(おばさま曰く、「私なんて今オレンジの服着てるわよ!」だったので)
店員さんに色々見繕ってもらい(その店員さんの名前が早坂で、私は不覚にも早坂の兄貴の花屋姿を思い浮かべにやついてしまった)無難に白いリボンをかけてもらうと電車に乗った。
いつも乗り馴れない列車(しかも混雑している)に少し湿気がまじっていてどうにも違和感がとれないままぼんやりとつり革に掴まる。座席に座る親子の小さな子供が手をにぎにぎしているのを見てすこしほんわかしつつ、お葬式とはどんな具合なのかと考えていた。そんなことを考えている自分が今知らない子供に笑顔を向けているのに一番違和感を感じながら。
おばさまと駅前で落ち合い、久々に会ったので近況報告などをする。おばさまは相変わらず明るい。いつでもいつの時も、おばさまは笑顔だった。幼いころからかなりお世話になっていたはずだが、おばさまが怒ったり泣いたりするのを私は見た事がなかった。いつでも私に対して愛情を示してくれるおばさまは、なんとなく心の拠り所のような気がした。
大叔母様にご挨拶にいくと大叔母様はまるで眠っているかのように布団に寝かされていた。
しかし一番驚いたのはそこに溢れる色彩だった。
布団も、毛布も、大叔母様の首に巻かれているものもすべてピンクで統一され、布団の上には生前に撮られたたくさんのスナップ写真に、吹き出しやメッセージカードが添えられたものがたくさんちりばめられていた。
お葬式という体裁にかなり気を使って身構えていた私はここで一気に気持ちが溶解した。
なあんだ、という気持ちだった。
なあんだ。そうか。そうだよね。ここはそういう所だったね。
また従兄弟のお姉さんやお兄さんもいた。
お姉さんはおばさまの娘なだけあってやはりとても元気で、私が着いたと思ったら大叔母様の耳元で
「おばあちゃま!ヒロミちゃんとこのおちびちゃんが来てくれたわよ!」と叫んでくれた。
大叔母様は風の噂で聞いていたが、亡くなる数年前から痴呆症を患っていらした。
私のことも、ずっと5歳くらいのまま年齢がとまってしまって記憶されていたらしく、ずっと私は「おちびちゃん」という呼称だったのだという。
しかし介護の過程を話してくれるおばさまとお姉さんの声に、全く暗さは感じられなかった。無理をして明るくしているわけでもなく、まるで運動会の準備が大変だったというような話と同じ位明るく介護が大変だったのだと話してくれた。
愚痴ではない。本当にただの思い出話なのだ。
とある日、そんな大叔母様が寝ていらっしゃるベットの側で一家が談笑していたところ、いきなり大叔母様が語りだしたことがあったのだそうだ。
「人生で大事なのは、きちんと、真面目に、生きる事ですよ」云々。
思わずそこにいた全員が背を正したのだという。
大叔母様のことは小学生のころに会ったのが一番記憶に鮮やかだったが、そのころはお元気でそしてたまに会った親戚の子供であってもいけないことはきちんと叱るという一面もあったことを思い出す。
少し、その場に居られなかったことを惜しいと思った。
私はなんだかんだでそうしてきちんと正しいことを言ってくれる大人が好きだったのだ。
しばらくして広島から飛んできていた私の祖父と祖母にも会えた。祖父は「よく来てくれたねえ」と言い、悲しそうに俯いていた。姉が亡くなったのがショックだったのだろう。
けれどその場のしんみりとした空気もすぐに明るくなった。おばさまとお姉さんがとても元気にまた思い出話をしてくれたからだ。
私はしばしこの悲しいのかなんなのかわからない空気におたおたしていたが、そのうちお兄さんがドイツでホテルマンをしていた(しかも五つ星ホテルだ!)ころの写真などを見るころにはすっかりなじんでしまっていた。
そうして大叔母様が大好きだったというピンクのものに囲まれ、これまた大好きだったというたくさんの親族とのおしゃべりに囲まれた通夜なのかなんなのかよくわからないご挨拶は終わった。
車で送ってもらいながらおばさまも一人で泣いた夜があったのよという話をちらりと聞いて、少し黙ったり、お兄さんの知り合いのアボリジニーのホテルマンが実家に帰って狩りをしている話を興味深く聞いたりした。ちなみにアボリジニーが一番こわい動物は「ハゲタカ」なんだそうだ。虎とかじゃないんだねえ。
とりとめもないままこうして終わったのであったが
なんとなく私は満たされた。
今そこにいることにも、私を形作った(関わった)たくさんの人に再び出会えたのも、大叔母様にお元気で、と言えた事も、なぜだかとても安心する出来事だった。
私の祖父の姉にあたる人で、私もたまに母親と家を訪ねることもあった。
母が真夜中に大騒ぎして電話をかけてきて、仕事で終電もぎりぎりの時間に帰り道を急いでいた私は母の「行きなさい」「行くべき」というような押し付けるような語調に大層イライラさせられた。
元より私は誰かに押し付けられた、義務のような、義理のようなものの理由から行動するのが大嫌いだからだ。私は母のそういったプレッシャーをかけるような、まるで私が行くのを面倒がっているとはなから決めつけたような言いぶりに激怒し、そのまま電話を切ってしまった。
それでも私はそこまで意固地ではないのでちゃんと予定を合わせることにした。
意固地というより母のその態度が気に食わなかったというだけで、大叔母様にご挨拶に行くことを拒む理由等ないわけだし、お世話にもなったしそのへんはちゃんときちんとしたかったのだ。
久々におばさま(祖父の姉の娘にあたる人)に電話をしたら、相変わらずしゃかりきな声で「無理しなくていいのよ、仕事あるでしょう?」と言われた。そう言われると人間心の余裕ができるというもの。「ううん、土曜仕事だからその帰りがけ、八時くらいに行くけど大丈夫ですか?」と聞く。そんなこんなで通夜の前の親族の集まりのようなものにそうしてどうにか顔を出すことができた。
母に言われた通り、私は大叔母様が好きだったというピンクの花を求めて仕事帰りに花屋に寄った。
服装は地味だが私服。(おばさま曰く、「私なんて今オレンジの服着てるわよ!」だったので)
店員さんに色々見繕ってもらい(その店員さんの名前が早坂で、私は不覚にも早坂の兄貴の花屋姿を思い浮かべにやついてしまった)無難に白いリボンをかけてもらうと電車に乗った。
いつも乗り馴れない列車(しかも混雑している)に少し湿気がまじっていてどうにも違和感がとれないままぼんやりとつり革に掴まる。座席に座る親子の小さな子供が手をにぎにぎしているのを見てすこしほんわかしつつ、お葬式とはどんな具合なのかと考えていた。そんなことを考えている自分が今知らない子供に笑顔を向けているのに一番違和感を感じながら。
おばさまと駅前で落ち合い、久々に会ったので近況報告などをする。おばさまは相変わらず明るい。いつでもいつの時も、おばさまは笑顔だった。幼いころからかなりお世話になっていたはずだが、おばさまが怒ったり泣いたりするのを私は見た事がなかった。いつでも私に対して愛情を示してくれるおばさまは、なんとなく心の拠り所のような気がした。
大叔母様にご挨拶にいくと大叔母様はまるで眠っているかのように布団に寝かされていた。
しかし一番驚いたのはそこに溢れる色彩だった。
布団も、毛布も、大叔母様の首に巻かれているものもすべてピンクで統一され、布団の上には生前に撮られたたくさんのスナップ写真に、吹き出しやメッセージカードが添えられたものがたくさんちりばめられていた。
お葬式という体裁にかなり気を使って身構えていた私はここで一気に気持ちが溶解した。
なあんだ、という気持ちだった。
なあんだ。そうか。そうだよね。ここはそういう所だったね。
また従兄弟のお姉さんやお兄さんもいた。
お姉さんはおばさまの娘なだけあってやはりとても元気で、私が着いたと思ったら大叔母様の耳元で
「おばあちゃま!ヒロミちゃんとこのおちびちゃんが来てくれたわよ!」と叫んでくれた。
大叔母様は風の噂で聞いていたが、亡くなる数年前から痴呆症を患っていらした。
私のことも、ずっと5歳くらいのまま年齢がとまってしまって記憶されていたらしく、ずっと私は「おちびちゃん」という呼称だったのだという。
しかし介護の過程を話してくれるおばさまとお姉さんの声に、全く暗さは感じられなかった。無理をして明るくしているわけでもなく、まるで運動会の準備が大変だったというような話と同じ位明るく介護が大変だったのだと話してくれた。
愚痴ではない。本当にただの思い出話なのだ。
とある日、そんな大叔母様が寝ていらっしゃるベットの側で一家が談笑していたところ、いきなり大叔母様が語りだしたことがあったのだそうだ。
「人生で大事なのは、きちんと、真面目に、生きる事ですよ」云々。
思わずそこにいた全員が背を正したのだという。
大叔母様のことは小学生のころに会ったのが一番記憶に鮮やかだったが、そのころはお元気でそしてたまに会った親戚の子供であってもいけないことはきちんと叱るという一面もあったことを思い出す。
少し、その場に居られなかったことを惜しいと思った。
私はなんだかんだでそうしてきちんと正しいことを言ってくれる大人が好きだったのだ。
しばらくして広島から飛んできていた私の祖父と祖母にも会えた。祖父は「よく来てくれたねえ」と言い、悲しそうに俯いていた。姉が亡くなったのがショックだったのだろう。
けれどその場のしんみりとした空気もすぐに明るくなった。おばさまとお姉さんがとても元気にまた思い出話をしてくれたからだ。
私はしばしこの悲しいのかなんなのかわからない空気におたおたしていたが、そのうちお兄さんがドイツでホテルマンをしていた(しかも五つ星ホテルだ!)ころの写真などを見るころにはすっかりなじんでしまっていた。
そうして大叔母様が大好きだったというピンクのものに囲まれ、これまた大好きだったというたくさんの親族とのおしゃべりに囲まれた通夜なのかなんなのかよくわからないご挨拶は終わった。
車で送ってもらいながらおばさまも一人で泣いた夜があったのよという話をちらりと聞いて、少し黙ったり、お兄さんの知り合いのアボリジニーのホテルマンが実家に帰って狩りをしている話を興味深く聞いたりした。ちなみにアボリジニーが一番こわい動物は「ハゲタカ」なんだそうだ。虎とかじゃないんだねえ。
とりとめもないままこうして終わったのであったが
なんとなく私は満たされた。
今そこにいることにも、私を形作った(関わった)たくさんの人に再び出会えたのも、大叔母様にお元気で、と言えた事も、なぜだかとても安心する出来事だった。
PR